「『噺のまくら ー 三遊亭圓生』の解説 《圓生の頭脳と知識こそが偉大なる「文化」》ー さだまさし」小学館文庫 から
【解説】圓生の頭脳と知識こそが偉大なる「文化」
はなし古典落語は話しながらたとえ内心「この噺はつまらない」と思って居ても、当の面り手への余程の評判や本人の自信でも無い限りその「筋」を変えたり「下げ」を変えたりすることは難しいようだ。
そこで演り手にとっては「まくら」が己を表現する手っ取り早い道具になる。
誰でも知っている噺ならばすぐに上手の誰かと比較されるけれども「まくら」は個人のものだからだ。
それで割合自由に出来る分、その人の思想や視点、考え方や価値観までが浮き彫りにされるからある意味では一番怖いものだろう。
つまりその人がどの程度の人物であるか「まくら」を聞けばおよその目途が立つ。 噺は上手いけれども「まくら」のつまらない人が居り、「まくら」は面白いが噺が下手な人がある。
どちらも上手い人は少ないが三遊亭圓生はそのどちらも上手の中の上手だ。
最初に結論を言う。
本書に触れて誰もが思うことだろうが、三遊亭圓生の頭脳と知識こそが既に偉大なる「文化」そのものであり、その演目の多さ、多彩多様な上手さは、落語家の一人というだけではなく、『三遊亭圓生』という一個の「ジャンル」であったと思い知る。
こういう人をこそ『名人』と呼ぶべきであってまさに三遊亭圓生は『日下開山』と称えられるべき巨人であったと思う。
「品川の新宿に白木屋てと女郎屋がございまして、そこの板頭[いたがしら]を勤めてぇるお染てぇ花魅がいた・・・」
三遊亭圓生独特の鼻に掛かった口調の『品川心中』の出だしは今でも僕の耳に深く刻まれているのだけれども、そう何度もこの話を高座で聞いた記憶はない。
従っておそらくそれは少年時代、何かの雑誌の付録に付いていたソノシートを悟り減るほど聞いたせいだと思われる。 「〜でがす」「〜でやす」という江戸弁が「作り物」「借り物」ではなく「生粋」かじたのに「大阪生まれ」と聞いてひっくり返ったが、鼻濁音のとても綺麗ったが、鼻濁音のとても綺麗な人だった。
僕の生まれた九州には鼻濁音文化が無かったため、今でも歌う際に意識しながら鼻濁音を探っている有様なので誠にどうも羨ましい。
子どもの頃からクラシック・ヴァイオリンを学んでいて、 小学5年生、6年生の折りに「全日本学生音楽コンクール」の九州・山口県大会において2年続けて入賞(3位、2位)したために田舎の方では相当に期待され、僕は中学1年生の春からたった独りで東京へ出て来て下宿生活を送った。
お陰で13歳から東京の水に馴染んだ。
昭和40年春、葛飾の四つ木で下宿生活を始めた最初の朝に「あっさり〜〜しじみっ」という売り声に起こされてひどく感激した覚えがある。
少年時代、長崎の実家の近くに花市場があって、姉さん被りの天秤棒で「花は~要りまっしぇんかぁ〜〜」と家の前の坂道をゆらゆらと登って行く花売りの声は故郷の大切な音の記憶のひとつであったから、それを思い出したのと、故郷にはなかった「浅蜊売り」という仕事があるのだ、という驚きと感動だった。
「長崎」を遠く離れ「江戸」で暮らし始めたという感慨のようなものを子どもながらに植え付けられた瞬間であったろうと思う。
当時は夜になると友達はラジオだけで、必死にかじりついて深夜放送を聞いた。
ある時、それがTBSラジオであったかNHKラジオであったかは定かではないが、 突然僕の耳に「落語」が降ってきたのだった。
僕の曖昧な記憶ではそれは確か志ん生の『蒟蒻問答』であったが、あの噺をラジオで聞いて所作がありありと浮かんだのは、おそらく「胸の前に両手で四角を作り」などというアナウンサーの解説付き(当時ラジオではよくあること)だったからだと思われる。
耳で言葉を聞くだけで己の頭の中の想像力がかき立てられるというのは初の経験で、 僕はそれ以後貪るようにラジオで落語を探して聞いた。
一つには東京の中学の同級生から「九州訛りを笑われる」事への悔しさと「耳で覚えた小噺を同級生に聞かせた時の爆笑」という不思議な対極の狭間で「落語を真似すれば九州弁の矯正になる上、東京弁が覚えられ、面白ければ友達に受ける」という利点もあって更に落語にのめり込んでいったのだった。
そういう意味でも『三遊亭圓生』は素晴らしい教科書でありお手本であって聞いては真似をした。
第一、演目も多く、粋な言葉遣いがまことに江戸弁らしい魅力に満ちて居た。
寄席で初めて圓生師を見た時には驚いた。
想像していたまんまの顔と姿だったからだ。
中学時代は当時人形町にあった末廣亭で、高校生になると新宿の末廣亭、有楽町の東宝名人会などに出掛けるようになった。
早い東京暮らしのお陰で僕は古今亭志ん生、三遊亭圓生、柳家小さん、桂文楽という昭和の大名人に間に合ったという訳で、自然にその後の名人、立川談志、古今亭志ん朝、柳家小三治に出会う幸運に恵まれたのである。
志ん生師には、そう幾度も生で聞く機会は恵まれなかったが、大学1年生の時に園學院大學の「落語会」一同こぞって目白の小さん師の道場に出掛けて修行をする機会があって、小さん師には直接お目に掛かっている。
また、その年にTBSラジオの「大学対抗落語合戦」に出演した4年生の先輩の付き人として付いていった楽屋で審査委員長だった文楽師にサインを貰った。
誠に要領良く、図々しいものである。
サインといえば昭和53年、西海橋の袂の休憩どころで、一服されていたのか或いは食事の後の休憩だったのかは分からないが、ばったりと圓生師に出会った事があった。
僕は長崎市内から佐世保市へコンサートに出掛ける途上で、たまたま移動用のバスに色紙があったので慌てて太いペンと一緒に持って圓生師の所へ駆けつけた。 失礼にならないよう気を遣ったつもりで恐る恐る「ええ、おくつろぎの所まことに恐れ入ります。圓生師匠とお見受け申し上げまして、あのぉあたくし師匠の大ファンでございまして、もしもお宜しければひとつ、師匠のお墨付きを頂戴出来ましたら嬉しうございます」と、そう言った。
すると圓生師がニヤリと笑って色紙とペンを受け取り「お墨付きと来たねこりゃ ····只もンじゃぁないねどぉも」とさらさらとサインをして「こぃでよござんすか?」と笑顔になった。
ぼくはひたすら恐れ入って幾度もお辞儀をしてバスに戻ってからガッツポーズをした。
このことは幾度もステージで話したし、仲の良い落語家にもこの話をしたが何故かなぜまともに信じる奴がいない。
それが2018年の春先のこと、神保町の古書センター5階にある「らくごカフェ」で高校時代の落研のOB会をやっている最中にわざわざ訪ねてくださった寄席文字の橘右橘師が「西海橋のその場所に私、居りました」と証言してくれた。
「ちょうど圓生師匠は落語協会を脱退するというので大変な時期、三遊協会をお作りになった頃のことで、私がマネージャーとして九州公演に同行しておりました」と言う。
「作り話じゃあ無いですよね」と言うと「お墨付き、覚えてますよ、その後で私はすぐにさだまさしさんだと分かりましたのであの人は今大層売れている歌手ですよと申し上げたら師匠が、おやそうかい、やっぱり只もンじゃぁなかったね、と大層ご機嫌になっておっしゃったんです」
この証言をどれほどの感激と感謝で頂戴したことか。
閑話休題。
どうも話が逸れる。
圓生師のまくらについて書く約束をしていたことをやっと思い出した。
つまり此処までが長い「まくら」である。
さて圓生師の「まくら」がこれほど素晴らしい「作品」であることを実は本書を読むまで気づきもしなかった。
というのも実際の高座ではいつも時候のことから始まり、くすぐりを入れて座を暖めたかと思うと極めて自然に噺に入っていくし、何せご承知の通り名人ゆえに「まくらの凄み」になど全く気づかなかった。
で、これまた余談になるが、圓生師の「まくら」といえば、僕が学生時代のこと、 新宿末廣亭で圓生師が酔っ払って高座に上がった時のことが強烈に記憶に残っている。 圓生師が酔って高座に上がったのを初めて見たので驚いたこともあったが、実に上機嫌に極めて下品なまくらを振った。
(自分の)子どもの頃に楽屋に一朝(三遊亭一朝)じいさんというのが居て、と話し出したかと思うと「膝の上に幼いあたくしを乗せて」と突如赤裸々なバレ話になり、寄席では「放送自粛用語」などないので四文字熟語を連呼する下卑た猥談で男どもをわいどん大いに笑わせた後、なんの話になるかと思いきや「なンてんで・・・・・・まぁ実にこの・・・・・・ しどいもんで……………」とこの日は軽く『てんしき』を演ってさらりと下がった。
「圓生の噺は品が良い」と思い込んでいたので少なからず衝撃を受けたが、その後次第に「品」の幅も奥行きも広い人なのだということが分かった。
さりげなく深い知識を披瀝したあと、その蘊蓄で悦に入るでなく、わざわざ自分でそれを突っ込んで笑いを誘ったり、そのあとにわざと下品な笑い話を入れるというのはある意味圓生師の「噺家」また「芸人」としての「矜持」かも知れない。
本書中『紺屋高尾』のまくらに「さぶるこ」という言葉が出てきたのに驚いた。
日本国語大辞典によれば「さぶる」は「さぶ」の連体形、「さぶるこ」でしなやかな美女のこと、うかれめ、遊女、さぶるおとめ、とある。
また確かに、万葉集四一〇六に「左夫流其児」という表記、その返し歌万葉集四一〇八に「左夫流児」という表記、また遊女の名として用いられているのである。
圓生師の知識の深さに改めて驚くが、その後「しべえ、しべえ」の八兵衛などという下卑た話に繋いでいくので決して知識をひけらかすようには聞こえない。
そのバランス感覚に驚くのだ。
また知識だけではなく歴史の生き証人としての「記憶」が凄まじい。
『文七元結』のまくらで「刀でいうと圓朝は正宗、圓喬は村正」というくだりがある。リハビリ
(自分は)子どもの頃から落語を聞いてきたが「橘家圓喬」(四代目)が一番凄かったと思うが、当時の年寄りに言わせれば「圓朝に比べるとやはり下だ」という話など、 素人の僕が知ったかぶりで若い連中に文楽はこうで、圓生はこうだったなどと講釈するのとは訳が違うのである。
圓生師に圓朝、圓喬を持ち出されてはただただひれ伏すのみだ。
また“らくだの可楽”が泣き上戸であったと、本書『酢豆腐』のまくらで読んで膝を打った。
僕の最も好きな噺は『らくだ』で、噺の始まりから主人公は既に死んでおり、一言も喋らないにもかかわらずその人となりや人生が周囲の人々の言動によって浮き彫りにされていくという構成は抜群だ。
噺の冒頭で凄みを利かせて演じ「肩屋」を徹底支配するオソロシイ「悪党」の筈の半次が、やがて酒のせいで「屑屋」がオソロシイ奴に変貌し、支配関係を逆転されてしまい、とうとう半次の人の良さが顕れてしまう。
その『らくだ』の噺を得意としていた三笑亭可楽が「泣き上戸」であったという証言によってあの『らくだ』の名演の向こう側の、可楽自身の本音や本性や本道などがまざまざと見えてくるようで落語好きにはたまらない証言のひとつだったろう。
僕の聞いた圓生師の噺で好きだったひとつは高校時代に聞いた『三年目』で、先妻のいじらしさが胸にこたえた。
お陰で今でもこの話は大好きだ
この人情話の趣はこれこそ圓生の色気の最たるものと思われるので、その「まくら」にはさぞや良いものが残っているかと思ったが残念ながら本書には見当たらなかった。
『鼠穴』『庖丁』など悪人の出てくる噺は落語家の本性が表に顕れるというが、圓生師には「悪も芸の内」と思わせる果てしない奥行きと凄みがあった。
一方で元は義太夫語りで、小唄端唄も得意とした圓生師の「喉」の良さ粋さ巧みさは他の落語家のなかなか及ばないところ。
本書中『庖丁』のまくらでは音曲噺の元祖「船遊亭扇橋」の話から都々逸の元祖 「都々一坊扇歌」の話に拡がってゆくが、その途中の都々逸の文句を読みながら、ふと脳裏に圓生師の巧みな歌声が聞こえて来た。
歌も上手い圓生師の抜群の独壇場といえばやはり『後家殺し』だろう。
僕が『関白宣言』を書いた年なので覚えているのだが昭和54年に横浜での『後家殺し』名演中の名演を聞いた。
この噺は単純な笑い噺ではない上、浄瑠璃の素養が無ければ出来ず、また素養があるというだけではなく、上手でなければ出来ない話なので今では演れる人のない貴重な噺だ。
本書では竹本義太夫と近松門左衛門の逸話が『後家殺し』の「まくら」として披露されているが、僕が聞いたのは40年ほどの昔で、当時既に『後家殺し』は死語だったから、圓生師はその日の短いまくらで常磐津、清元、義太夫の褒め言葉を並べ、関西での義太夫の褒め言葉であるという『後家殺し』をさらりと観客に呑み込ませてから噺に入った。
義太夫の上手い主人公、女房も子もある常吉が義太夫を通じて町内の伊勢屋という質屋の後家に請われて良い仲になる。
それを羨んだ友達の讒言を鵜呑みにして信じ込み、嫉妬に逆上した常吉が酔った勢いでその後家を殺してしまい、捕らえられて打ち首を命じられる。
息苦しい結末だが、人情奉行の前で常吉が己の不明や不始末を恥じ、遺言代わりに得意の義太夫を一節呻るところで話は終わる。
「後に残りし女房子が打ち首と聞くなぁらぁば・・・・・・さこそ嘆かぁむ・・・・不欄やとぁ
その一節の素晴らしいこと。
そこで奉行が下げの一言
「うん・・・・・・後家殺し・・・・・・」
歴史に残る名演だった。
その年の秋、圓生師は突如この世を去った。
不世出の名人であった。
(さだまさし/歌手)